日本橋 〜 日野宿

甲州道中初回は2017年7月7日1泊2日でスタートしました。中山道を歩いてきた後では都内から八王子までは何も無いに等しいくらいつまらない街道です。しかし、ここをクリヤーしなければ先に進めません。今回は熱中症が原因と思われる貧血や足の痙攣で散々な目に遭い、初回は予定の手前の日野宿までとなりました。やはり舐めてかかっては下手すれば命取りです。こればかりは大反省!
そのような訳で、写真もあまり撮るところもありませんでしたが、あったとしても撮る余裕は無かったことでしょう。



1日目 日本橋 〜 つつじヶ丘駅  2017.7.7

いま三たびの日本橋

9年前の東海道、昨年の中山道に続き、3度目の日本橋になりました。東海道を歩こうとした時まで、日本橋は見た事もありませんでした。それがナント、街道歩きのスタート地点として3回目となった事に自分でも驚きます。まさか、こんな事になるとは!

日本橋

日本橋は単に橋というだけでなく、日本の国道の起点となっている場所でもあります。橋の中央にはその起点を示す「道路元標」が埋め込まれています。日曜なら道路も空いているのでセンターラインにある原票も撮影出来ますが、平日はとても道路中央までは出る事は出来ません。橋の東詰で原票のレプリカと旧東京市道路元標を見る事が出来ます。

東京駅

東京駅の構内を抜け丸の内側に出ました。東京駅を西側から見るなんて何十年ぶりの事です。駅舎そのものは子供の頃の記憶とあまり変わってはいないようです。と言っても子どもの頃の記憶が残っているわけでも無いのですが。
1日辺りの列車発着本数は実に3000本といいますから、東京には人も多いわけです。この赤レンガ造りの駅舎は2003年に国の重要文化財に指定されています。

皇居

日本橋からずっと随分賑やかな所を歩いてきましたが、ここまで来てようやく静かになりました。東京のど真ん中でも皇居には緑が生い茂っています。この皇居の国有財産としての価値は財務省資料(2009年)によれば2146億4487万円なのだそうです。これって、意外に低価格?
皇居だぜ 一節どうぞ 千代子さん  一秀

警視庁

現在の建物は1980年に新築した建物。自分の年代ではTVドラマでやっていた「7人の刑事」に出た古い庁舎の記憶が強烈で、今の建物は長閑?に感じてしまいます。あの白黒画面に出てくる庁舎は全面に丸みがあるものの、その姿には威厳がありました。

国会議事堂

警視庁の先から左手を見ると国会議事堂が見えていました。
1920年に始まった国会議事堂の建設工事でしたが、工事中にも関東大震災、2.26事件、また作業員の火の不始末から一度焼失、など幾多の大きな事件が続き、建設工事が竣工したのは着工から実に17年を経た1936年の事でした。

桜田門

桜田門は桜田堀と凱旋堀の間にある江戸城の内堀に作られた門で、井伊直弼が水戸藩士に殺された舞台となった事でよく知られています。また、あまり知られていませんが、昭和7年にも昭和天皇の暗殺未遂事件(桜田門事件)がこの地で起きています。江戸城には内桜田門と外桜田門の二つが存在しますが、内桜田門は桔梗門と呼ばれ、単に桜田門という場合には外桜田門を示している場合が一般的です。

 

法務省赤煉瓦棟

警視庁と1号線を挟んで建つ法務省の旧本館である法務省赤煉瓦棟は平成6年に重文に指定されました。この建物は明治21年に着工され,同28年に完成しています。赤れんが棟は,関東大震災ではほとんど被害を受けませんでしたが,昭和20年の戦災によりれんが壁とれんが床を残して消失しました。しかしその後、昭和25年までに改修され,その後,法務省の本館として使われてきました。

桜田壕

桜田門と半蔵門の間の濠は桜田濠と呼ばれています。この濠は江戸城でも一番の幅のある濠となっていて、広い所では約115mあるといいます。また桜田濠は弁慶濠とも呼ばれます。江戸城の西側(甲州街道)に面した部分の濠が一番の幅を持っているという事は、この街道の防御が一番重要と考えられていたという事もも出来ます。

半蔵門

近くに伊賀忍者、服部半蔵の屋敷があった事が門の名前の由来となっています。半蔵門は江戸城護りの要の門で、半蔵の部下一門がこの門外に組屋敷を構え、甲州街道の護りにあたっていました。江戸幕府では甲州街道は天領である甲府へ続く、将軍の避難路と考えていたようで、服部一門はこの避難時の将軍の護衛としての役も負っていたといいます。
相変わらず自販機が無いので水分補給が出来ません。ここからは濠を離れて西に向かいます。

Seven & i Holdings

Seven & i Holdings はセブンイレブン、イトーヨーカ堂、そごう、西部などを傘下に持つ会社で、中でも利益の8割はセブンイレブンによるコンビニ事業が稼ぎだしているといいます。さすがにその本社となると立派な建物です。コンビニは確かに便利なのですが、昔から地元に根付いて商いをしてきた地元の商店を駆逐してしまった感があります。しかし、駄目となった時の撤退も早く、その後に残るのは地元商店も無いシャッター通り。

上智大学

甲州街道(20号線)を挟んでSeven & i Holdings の反対側にあるのは上智大学。16世紀にイエズス会の宣教師として日本にやって来たフランシスコ・ザビエルは日本の首都(江戸)に大学を建学したいと、ローマにそのような書簡を送っています。これが大学設立のきっかけになったといいますが、実際に上智大学が開校したのは1913年といいますから、ザビエルから400年後?の事。

新宿御苑

四谷には江戸時代当時、大木戸があり、ここが江戸城下への西の入り口でした。伝馬制が敷かれた当初、最初の宿場は高井戸でしたがその距離が4里と長かったために、その間に新宿が開設されました。そこに屋敷を構えていた内藤氏の屋敷の一部を割いて宿場を開設した為、内藤新宿と名付けられました。広大な面積を持つ新宿御苑もかつての内藤家下屋敷跡です。この内藤氏は家康が江戸に入る際、先陣を勤め防備と警戒にあたった人物で、この功により広大な屋敷地を拝領したといいます。この辺りから水不足の症状なのか、頭クラクラ、そのうちに足が攣りだして新宿の町中で七転八倒。痛いのなんの。スポエネドリンクをガブガブ飲んでいるうちにようやく治まってきました。

如意輪観音

中山道や東海道と違い、また都内の賑やかな都心部に宿場が続くので、かつての宿場が現在のどの場所になるのかよく分かりません。内藤新宿から下高井戸、上高井戸、国領、府中、日野と続きますが、どこがどこやら。自分の足の痙攣の為、ペースが落ちて、どうやら当初の予定の調布には届きそうにありません。初日は京王線の「つつじケ丘駅」をゴールとしました。それにしても今日は大変でした。糞面白くもない国道歩きを強いられ、なおかつ、足の痙攣が治まった後にきた筋肉痛にも耐えながらですから、もうウンザリ。
都心を少し離れ、ふと立ち寄ったお寺の境内でこんな観音像や蓮の花を見ると少しだけホットします。
今回も かくて昼餉のビールかな  一秀

ここまでは何とも見る物がない街道歩きでした。東海道や中山道は都心部にも見るべきものはそこそこあったのに、甲州道中は余程気をつけていないと気がつきません。これは街道そのものが徳川幕府にとって戦略上重要な街道であった為に、参勤交代も高島、高遠、飯田の3藩だけに限られていたという事で、もともとあまり賑やかな街道ではなかったようです。唯一の大通行が「お茶壺道中」だったと言います。幕府に献上される「宇治の茶」は中山道を通り、下諏訪宿から甲州街道に入りました。しかしこの道中は将軍通行と同じ権威を持ち大名や、庶民の不評をかっていました。庶民は「茶壷に追われて戸をピシャン 抜けたらドンドコショ」と家に隠れたといいます。このお茶壺道中は慶応2年まで230年間も続いたといいます。


2日目 つつじヶ丘駅 〜 日野駅 2017.7.8

2日目をスタート

ホテルで朝食を済ませ、京王線でつつじケ丘駅から今日のスタートです。今日も暑い一日になりそうです。昨日みたいにならないように気をつけなければ!!
所々、そこそこに緑の並木があり、涼し気です。やはり人間が生きていく為には、人以外の他の生物の存在も欠かせないようです。

常性寺 本堂と地蔵堂

常性寺は鎌倉時代、多摩川沿いに創建され、慶長年間に現在の地へ移り、成田山新勝寺より成田不動尊を勧請し、以来調布のお不動さんと呼ばれ親しまれてきました。境内の地蔵堂には一願地蔵尊が安置されていて、一つだけ願いを叶えてくれるといいます。

常演寺

日陰があったので休もうと入った境内に咲いていた蓮。ここは調布飛行場に近いので上空を小型機が飛び交っています。丁度上を通った機体を撮ったら、偶然にも甲州街道のルート参考にしているサイトでやはり同じ機体番号の飛行機(ドルニエ)を撮って掲載していました。

常演寺

疲れます。若干一名は昨夜の酒が残り加減で、俗に言う「二日酔い」状態で。今日は静かに最後尾を着いてきます。昨日の自分も大変だったけど、この暑さの中での二日酔いウォークもさぞかし大変だった事でしょう。座り込むと立ち上がるにも気合いを入れないと大変です。都心部からも離れてきて自然の緑も増えてきました。
それにしても何ーーーにも無いのです。少しでも何か見ながら歩ければ気晴らしにもなり疲れも忘れる事が出来るのでしょうが、考えるのは「早くゴールしたい!」という思いだけ。

大國魂神社

ようやく昨夜泊まったホテルのある府中まで戻ってきました。ずっとかき氷を食べたいと思っていたのに、ここまでそんな店は無かったのですが、ようやく発見。氷一杯で体は冷え切って寒いくらいになりました。体を冷やすにはかき氷が一番です。この店の横にあったのが「大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)」。なにやらいかめしい名前の神社です。境内の総面積は1万坪強と言いますからかなり広いです。縁起が説明されていましたが、何とも分かり難い説明で要領を得ませんでした。
炎昼や 揺らめく旗の氷文字 一秀

大國魂神社御神木

神社の入り口にある神木のケヤキ。驚くほどの太さです。植木には 詳しいsさんもこれ程のケヤキは見た事が無いと言っていたくらいですからかなりのもの。
中山道でも巨木は何カ所か見てきました。人間より遙かに長い歴史を見てきたこうした巨木を見ると神宿る、といった言葉がそれらしく聞こえてきます。もしも、人間が存在せず、自然が自然のままで残っていたなら全国にこのような巨樹の森が広がっていたのでしょう。日本全国縄文杉、縄文ケヤキ、縄文檜 etc,etc....
炎天に 大樹よ何を語らんや 一秀

高札場

鎌倉街道と交差する位置に立つ、甲州道中では初めてみた本格的な高札場跡。多摩地区で現存しているのはここの他東大和市 の蔵敷高札場跡2箇所だけとなっているようです。主な街道の交差点とという事で、交通の要所だった事がうかがえます。

わずかな涼

暑い中歩いていても、所々で街道脇の木の陰に入ります。少しでも日が隠れれば暑さも凌げます。ここまで来れば多摩川ももうすぐ。多摩川を渡れば日野宿で、今回のゴールです。

日野の渡し碑

このあたりにかつては多摩川を渡る渡し船があったといいます。この渡しを過ぎると江戸から離れる人は遠くに来たと思い、江戸に向かう人は江戸に着いたと感じたといいます。この渡しは1926年(大正15年)の日野橋の完成で廃止されました。

多摩川に架かる立日橋

ようやく多摩川です。日本橋から離れ、かなり西に来ました。東海道では多摩川は六郷川といって、六郷の渡しでしたが、ここにはそうした説明は無かったようです。日野橋を渡るルートと立日橋を渡るルートがありましたが、昔の渡しは立日橋の下を通っていたようなので、こちらを行く事にしました。立日橋は橋の上を多摩モノレールが走っています。

多摩川を渡り日野へ

多摩川を越えると「新撰組」のふる里、日野宿です。日野宿は新撰組副長の土方歳三や六番隊長の井上源三郎の出身地で、日野市では十数年前のNHK大河ドラマ「新撰組」以後、新撰組を観光の目玉として各種の整備を行った来たようです。その当時はさぞ、新撰組ファンが訪れた事でしょう。しかし、放送が終了して十三年、やはり大河効果も些か薄れてきているように感じました。

廃屋

厳めしい造りの建物が2棟廃屋になっていました。建物の前に説明がされていました。それによればここは「有山家」という家の店蔵らしいです。この建物は外観こそ石造りですが、内部は木造なんだとか?
ツタが石造りの建物に絡みつき、何とも言えない雰囲気を醸し出しています。ガイドブック等にも説明されていないのが不思議です。

日野宿本陣

日野宿本陣は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。今の建物は幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として元治元年(1864)12月から使用された建物です。本陣として使われた期間は僅かしか無かったために、建物の傷みもなく、また、最近までは蕎麦屋として使われていたために一部改造された所も有るようですが、ほぼ原型を保って保存されています。
日野宿に 影のちらつく鎮撫隊 一秀

本陣の正式な入り口

甲州道中に現在残っている本陣建物は、日野と小原宿本陣、下花咲宿本陣の三箇所です。日野宿には大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っており、建物の規模や内容においては他の2カ所には見られない規模を誇っています。名主の佐藤彦五郎は本陣の建物の敷地内に道場を開きます。ここに近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになり、また日野出身の土方歳三や井上源三郎も加わり、後に新撰組の中心人物となる面々が剣術に励んでいたといいます。

日野駅

これでようやく第1回目の甲州道中ウォークが終了し、ホットしました。やはり真夏の街道ウォークの大変さは半端ではありません。下手すれば命がけの街道歩きになってしまいます。
今回は大いに反省でした。
予定に少し届かなかったので、次回、相模湖までの計画がかなりハードになものになりそうです。八王子の先で小仏峠越えもあり、距離は長く、途中でのエスケープルートも無し、といった事からかなり綿密な計画が必要になりそうです。